函館の坂道・・・全国的に知られている八幡坂や二十間坂をはじめ、函館は坂の町でもあります。

 

函館観光フリーペーパー「ハコポケ」

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函館山の麓から栄えた街である函館。そんな函館で坂を抜きにした観光をしたらもったいないです。函館には忙しい観光は似合いません。
テレビCMやドラマ、映画で全国的に知名度が高く観光客で賑わう坂をはじめ、観光で訪れる人が稀な坂まで坂名とその由来が記されている大小18の坂があります。

そんな坂の由来や関係する歴史情報をご案内いたします。
ガイドブックには名前が載っていない地元の人のみが知る坂もあります。
@青柳坂Aあさり坂B護国神社坂C谷地坂D南部坂E二十間坂
F大三坂チャチャ登りG八幡坂H日和坂I基坂J東坂K弥生坂L常盤坂
M姿見坂N幸坂O千歳坂P船見坂Q魚見坂
坂名の由来を知ることにより、函館の歴史の奥深さを知ることができます。
解説中に「中面C−2」などとあるのはハコポケの地図を参照するための目安です。
函館の坂「青柳坂」

1.青柳坂〜あおやぎざか〜

坂上の青柳町へ向っているためこの名が付いた。
1965(昭和40)年までは春日町があったため春日坂といった。その昔は天台宗天祐寺(てんゆうじ、中面G−4 )に祀られている大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)に因み聖天坂(しょうでんざか)とも言われた。
地元の人には、「青柳小学校の坂」「天祐寺の坂」と言ったほうが早いかもしれない。
天祐寺の境内には、誰が奉納したのか七福神の布袋尊が祀られており、函館山七福神めぐりの7寺社のひとつにもなっている。

その他の情報観光で訪れる人はほとんどおりません。
函館公園
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函館の坂「あさり坂」

2.あさり坂〜あさりざか〜

1978(明治11)年イギリス人ジョン・ミルン(日本の地震学の父)、トーマス・ライト・ブラキストン(ブラキストン・ライン発見)、アメリカの動物学者エドワード・シルベスター・モース(東京の大森貝塚発見者・ code marked pottery=縄文の名付け親)らによって発見された貝塚に由来。
エドワード・S・モース博士は、日本考古学発祥の地と言われている東京品川区の大森貝塚を明治10年に発掘し、その報告書で縄文時代の「縄文」という言葉が初めて使われた。ジョン・ミルンの妻トネは、旧姓を堀川と言い、浄土真宗本願寺派函館別院(中面F−5)の堀川乗経の娘。

その他の情報観光で訪れる人はほとんど降りません。
亀井勝一郎文学碑
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函館の坂「護国神社坂」

3.護国神社坂〜ごこくじんじゃざか〜

坂上に護国神社(中面F−4)があることから付いた。
護国神社の前身は1869(明治2)年榎本軍降伏後に官軍戦死者を祀るために造られた招魂社。
坂上に汐見町があったため戦後一時期、汐見が丘神社とも言われた。
昔は招魂坂、汐見坂、倒産坂とも呼ばれた。
倒産坂とは坂に面して門を建てると罰が当り破産するといわれたため。

その他の情報観光で訪れる人は少しおります。
高田屋嘉兵衛像、護国神社境内に高田屋の亀石、函館山登山道
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函館の坂「谷地坂」

4.谷地坂〜やちざか〜

今では、数多くの道があるのでしっくりとしない坂名だが、昔はこの坂を通り坂の下の相生町(現、青柳町)から現在の電車道路を通って尻沢辺(現、谷地頭町)へ行くためこの呼び名が付いた。
谷地頭と書いてヤチアタマと呼んでしまいそうになるが正しくはヤチガシラである。
由来は、谷地つまり湿地帯であった所からきている。
谷地頭の函館八幡宮(中面G−3)向かいの野球場の辺りは、その昔沼になっていてカエルが沢山いたということだ。そのカエルがエゾヒキガエルだったかどうかは未確認。

その他の情報観光で訪れる人は全くと言って良いほどおりません。
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函館の坂「南部坂」

5.南部坂〜なんぶざか〜

江戸時代後期、幕府が蝦夷地を直轄した際に出兵を命じられた南部藩の元陣屋が坂上のNHK碑(中面F−4)のある辺りに置かれた事に由来している。
外国人墓地隣りには北海道で命を落とした南部藩士の墓(中面C−1)がある。
地元の人はNHKがあったことから坂の上を「NHKの坂」、坂の下には1969(昭和44)年に移転するまで丸井今井百貨店があったので下の方を「丸井の坂」と言ったほうが通じる方も多い。

その他の情報観光でロープウェイ乗場へ向かうため坂を登る人を見ます。
結構急な坂です。
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函館の坂「二十間坂」

6.二十間坂〜にじゅっけんざか〜

函館に来た方は、車または徒歩にせよ必ず通る坂ではないだろうか。
由来は幅が二十間、約36bあるので、この名前が付いた。
なんのひねりもない名前だが、大火の多かった函館だからこそ、防火帯としてこの幅が必要だったのである。
決して観光のために造った道ではありません。

その他の情報観光客で賑わう函館の代表的な坂のひとつです。
東本願寺別院、五島軒
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函館の坂「大三坂」

7.大三坂〜だいさんざか〜

1857(安政4)年に書かれた箱館夜話草(ハコダテ ヤワソウ)によると昔、坂の下に木下という人が住んでいたため「木ノ下の坂」と呼ばれていたと書かれている、その後、大三印の今でいう旅館ができ「大三之坂」と呼ばれたのが現在の名の由来である。
1986(昭和61)年、当時の建設省が道の日(8月10日)制定を記念し日本の道100選(全国104・うち北海道4路線)に選ばれたのひとつでもある。

その他の情報ハリストス正教会へ続く坂道なので観光客で賑わう函館の代表的な坂のひとつです。
ハリストス正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会、東本願寺別院、亀井勝一郎生誕地碑
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函館の坂「チャチャ登り」

7.チャチャ登り〜ちゃちゃのぼり〜

大三坂の上、ハリストス正教会の隣りに位置する急な坂。チャチャとはアイヌ語でお爺さんのことで、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。と言う説が一般的である。

その他の情報坂が急なため大三坂ほど込んでいません。
ハリストス正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会、東本願寺別院、亀井勝一郎生誕地碑
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函館の坂「八幡坂」

8.八幡坂〜はちまんざか〜

観光者に「CMの坂はどこですか?」と聞かれることも多い坂だ。
もとは、坂の上に八幡宮があったのでこの名前が付いた。
現在、坂の上には函館西高校があり、八幡宮は谷地頭(「やちあたま」ではなく「やちがしら」)電停を山側に上った所にある。(中面G−3)

その他の情報観光客で一番賑わう函館の代表的な坂です。
坂の上は写真スポットです。
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函館の坂「日和坂」

9.日和坂〜ひよりざか〜

今でこそあまりよく見えないが、昔はこの坂から天気の良い日に港や空を眺めるのに最適だったためこの名が付いた。
また、船魂神社に続く坂の上のほうを鳶(とび)坂と言っていた。
どちらも天気に関係している名前だ。

その他の情報坂は急ですが、坂の上の船魂神社まで上ると景色は良いです。
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函館の坂「基坂」

10.基坂〜もといざか〜

明治期に坂を下った所に道路の起点を示す里程元標(りていげんぴょう)があったためこの名が付いた。国道元標は現在、函館駅前にあります。
そのことからわかるように、この付近は江戸時代から函館の中心地で、坂の上の元町公園辺りには箱館奉行所や開拓使本庁、函館区役所、渡島支庁がおかれていました。そのため、御殿坂(ごてんざか)、お役所坂などとも呼ばれていた。坂に立ち、函館山を見上げるとその部分は御殿山です。坂の下に梁川剛一制作の明治天皇上陸記念碑(中面D−4)があります。明治天皇が明治9年7月18日函館を出港し横浜へ着いた日がもとの海の日(7月20日)です。

その他の情報八幡坂や二十間坂と並び人気の坂のひとつです。
旧イギリス領事館、旧函館区公会堂、元町公園
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函館の坂「東坂」

11.東坂〜あずまざか〜

今は一本道だが、1879(明治12)年の大火で焼失するまで現在の弥生小学校の東側辺りにあった青龍山浄玄寺(現、大谷派本願寺函館別院・東本願寺別院、中面E−4)の下に二本あった東側の坂に由来。
江戸時代には町年寄の白川宅があったことから「白鳥坂」「東の坂」と言われていた。
浄玄寺は、明治14年現在の地(二十間坂に面したところ)に移ったが明治40年の大火で焼失し、1915(大正4)年鉄筋コンクリート造りで再建した。(日本最古の鉄筋コンクリート寺院)

その他の情報この坂も、あまり観光客が興味を持たない坂。
坂の下に函館中華會館、箱館開港後の安政四年四月アメリカは現弥生小学校辺りにあった浄玄寺で事務を行い(アメリカ領事館跡)後に坂の上に移った。浄玄寺の二軒隣にあった實行寺(現船見町実行寺)でロシアは事務を行った。
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函館の坂「弥生坂」

12.弥生坂〜やよいざか〜

1879(明治12)年の大火までは、現在の一本の坂ではなく、この辺りには二本の坂があり、坂の上にあった日蓮宗実行寺(現船見町、中面C−2)に因み法華寺坂、実行寺坂と呼ばれていた。
弥生の由来は発展を祈念して付けられたといわれている。
函館の四天王 常野正義、渡辺熊四郎、平塚時蔵、今井市右衛門、平田文右衛門や伊藤鋳之助らの奔走により明治15年4開校した弥生小学校(中面D−3)の校名は弥生坂に由来。
明治40年には石川啄木が代用教員として勤務していた。
ハルカやユウたちの学校もここだ。

その他の情報この坂も、あまり観光客が興味を持たない坂。
坂の上の上に箱館戦争に関連した己巳役海軍墓地(きしのえき)や五稜郭設計者の武田斐三郎が命名した咬菜園跡がある。
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函館の坂「常盤坂」

13.常盤坂〜ときわざか〜

昔、坂の上に芝居小屋があったことから「芝居町の坂」やこの辺りの遊郭が全盛だった頃に帰る客が坂を見返ることから「見返り坂」とも呼ばれた。現在の名称は坂上の屋敷に松があったことから常盤の松(常緑で不老長寿の象徴)にちなみ常盤坂となった。
由来となった松の子孫と言われているものが函館公園内の旧函館図書館前(中面G-3)にある。

その他の情報函館観光でこの坂を目当てにくる人は皆無です。
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函館の坂「姿見坂」

14.姿見坂〜すがたみざか〜

かつて遊郭がこの辺りにあった頃、遊女たちの艶姿を見ることが出来たためこの名前がついた。
遊郭は1871(明治4)年9月の大火で焼失してしまい、その後、現在の宝来町(当時は蓬莱町)へ移った。

その他の情報函館観光でこの坂を目当てにくる人は皆無です。
坂を下りきったところに、ペリー会見所跡地があります。
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函館の坂「幸坂」

15.幸坂〜さいわいざか〜

1875(明治8)年に坂下の海岸を埋め立て幸町としたことからこの名が付いた。
それ以前は、今の西消防署弥生出張所の下辺りにあった神明社(しんめいしゃ)という神社に因み神明坂と呼ばれていた。
神明社は現在、坂の上にある澤辺琢磨の山上大神宮(やまのうえだいじんぐう、中面C-2)の前身。

その他の情報函館観光では人気のない坂のひとつ
山上大神宮下の船見公園からの花火見物はなかなか良いです。
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函館の坂「千歳坂」

16.千歳坂〜ちとせざか〜

1878・1879(明治11・12)年の大火以後にできた坂で、坂の東側(現 西消防署弥生出張所辺り、中面C−3)にあった神明社(現、山上大神宮)の松に因み千歳の名が付いた。
それ以前の坂のときは、「松蔭坂」「神楽坂」とも呼ばれていた。

その他の情報函館観光では人気のない坂のひとつ
大正湯
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函館の坂「船見坂」

17.船見坂〜ふなみざか〜

船見町に因みつけられた。
船見町は1873(明治6)年にできた町なので坂の名前もそれ以降にできた。
船見の由来は文字通り船の見える所、つまり船の出入りが良く見えるため付けられた。
現在は西小中学校で行き止まりだが、その前は称名寺(中面C−2)まで通じる坂であったため、称名寺の坂などと呼ばれていた。
この坂も明治12年の大火後の区画整理で変化した坂である。

その他の情報函館観光では人気のない坂のひとつ
鯨族供養塔、称名寺、実行時、東本願寺船見支院
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函館の坂「魚見坂」

18.魚見坂〜うおみざか〜

名前から想像できるとおり魚を見ることができるため付けられた。
魚を見ることができるとは、昔、坂の海側の下辺りに山背泊町(やませどまり)があり、そこに押し寄せてくる魚群を見つけるのに適した場所だったため付いた。
1965(昭和40)年まで坂の上に台町(ダイマチ。現、船見町に含まれている)があったため「台町の坂」とも呼ばれていた。
近所の人の話では、車の少なかったその昔、坂の上から下まで子ども達はソリ滑りや竹スキーで滑降していたらしい。

その他の情報函館観光では外国人墓地に通じる坂なので人はいるが、坂を下から登る人は少ない。
高龍寺、外国人墓地、南部藩士の墓
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青柳坂あさり坂護国神社坂谷地坂南部坂二十間坂大三坂・チャチャ登り八幡坂日和坂基坂東坂弥生坂常盤坂姿見坂幸坂千歳坂船見坂魚見坂